愛に支えられていると気づくとき、
本当は愛の外に出たことが一度もなかったと分かります。
それが、真ん中です。
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私たちの自我は、
物語の中に立ち上がるキャラクターのようなものです。
・役割を持ち
・欲望や恐れを抱き
・「私がする」「私が得る」と動く
・それを自分だと思い込む
形が揺れると、葛藤や苦しみが生まれます。
永遠に変わらないものではないし、今もコロコロ変わる。
これは、海に立つ波のようなものです。
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神(仏)もまた、
物語の中ではキャラクターとして現れることがあります。
・祈りの対象
・力を持つ存在
・守る者、与える者
けれどそれも、
海とは別の存在ではありません。
波のひとつの形として立ち上がる象徴です。
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では、真我霊(まがたま)とは何か。
真我霊は独立した存在ではありません。
真中神とは別の霊でもありません。
けれど体験の中では、
エゴの見方をやわらげ、
視点を真ん中へ戻す“導く質”のように感じられます。
それはまるで、夢にうなされている子に
「大丈夫よ」と朝日(真中神)をそっと入れて寄り添うお母さんのように感じられることがある。
しかし――
お母さんが外から来るのではありません。
それもまた、海の動き。
波の揺れが少し静まり、
もともと海だったと分かる流れ。
エゴの見方をやわらかくほどき、真ん中へ戻す質として体験される。
私たちはその質を真我霊と呼んでいます。
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けれどさらに静かに見ると、
エゴが実体ではなかったと分かるとき、
真ん中に戻す存在として感じていた真我霊も、
海の働きそのものだったと静かに分かります。
導く者と導かれる者が
もともと分かれていなかったと分かるからです。
海しかなかったと。
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真中神は、その海そのものです。
生命そのもの。
愛そのもの。
静けさそのもの。
叡智そのもの。
何かをする主体ではありません。
どこかから介入する存在でもありません。
すべての波を含みながら、
偏ることなく在る動的な全体。
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出窓から見たスカイツリー縦窓が額縁の様にぴったり収まっています。贅沢でした😌)
愛が支えている、というよりも
愛以外のものが存在していない。
だからこそ、
私たちは「愛に支えられている」と感じます。
支える存在と支えられる私が
別々にあるのではありません。
もともとその愛の生命の中に在る。
この真ん中に立つとき、
無理に何かを変えようとしなくても、
“現れは自然に整い、静かに変わり始めます。”
✨✨✨
神がいなくても大丈夫。
願いが叶っても叶わなくても大丈夫。
葛藤や不安も、波の揺れとして見えてきます。
自分が人生を支えているのでもなく、
外の存在に支えられているのでもなく、
肩書きや役割が支えているのでもない。
すでに、海の中に在る。
それが、真中神の生命です。
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未来の心配が静まるとき、
それは何かを得たからではありません。
もともと離れたことがなかったと
分かっただけです。
周囲の人も出来事も、
同じ海の波。
すべてが、
真中神の生命の現れです。
だからどうぞ、
どうぞ安心して、ゆったりと寛いでいてください。
愛に支えられているのではない。
もともと愛しかないのです。
🌟すめみま…シリーズ3までお読みいただき、ありがとうございます。
目の前の人と分かち合うあたたかさの中に、
すべてがほどけているのかもしれません。
その人をただ寛いで見つめていると、
どこか懐かしい
あたたかな深い静けさに触れることがあります。
名をつけるなら、それを真中神、真我霊と呼ぶのでしょう。
静かな愛と平穏は、
いつも、ここにあります。