神社の神に御祈願して願いが叶ったとき、それは本当に「神が叶えた」のだろうか?
私の中で起きていた整理はこうです。
人格神を私は「キャラクター」として理解している。
キャラクターとは、
• 物語の中で機能する存在
• 役割を持つ
• 性格や力を与えられる
• でも物語の外では実体ではない
たとえば小説の登場人物のようなもの。
物語の中では本当に生きているように感じられる。
助けたり、守ったり、導いたりもする。
でもそれは物語という構造の中での働き。
人格神もそれに近い。
創造主という役割も、物語の中で与えられた機能のひとつだ。
世界をつくった存在、人間を生み出した存在。
そう語られるとき、それは“創造主というキャラクター”になる。
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では、なぜ祈ると現実が動くことがあるのか。
それは、外の神が動いたのではなく、生命の流れがその形をとっただけだ。
私は真中神の鏡のように、物語の神を外に映す。
少し違うけどまるで自作自演のよう。自分が自分に願いを言ったようなもの。
そして現象が起きた。
叶うこともある。叶わないこともある。
叶わないときは「生命の流れが正しかった」のでもないし、「私が間違っていた」のでもない。
願いも現象も、どちらも生命の流れとして起きている。
自我には理解出来ないもの。
単純な原因と結果だけで説明できるものではない。
だから一致することもあれば、しないこともある。
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ここで大切なのは、生命の流れを神格化しないこと。
流れが「より良い未来を知っている存在」になった瞬間、また新しいキャラクターが生まれる。
創造主も、導き手も、試練を与える神も、物語の中では機能する。
でもそれは役割。生命そのものではない。
だから私は、ただ一致したか、しなかったか、と見る。それだけ。
真我霊は「どこかにいる存在」ではない。
生命の透明な在り方を指す言葉。
人格神の中に真我霊があるのではなく、その神という象徴も、その透明さの中で現れている。
向きが逆。
その神もまた、生命の現れのひとつ。
私たち人間は人間を創造できない。だから真中神ではない。
真中神も何かを“する”存在ではない。
創造という働きが起きるなら、それは生命の現れ。
でもそれを人格や主体にしてしまうと、またキャラクターになる。
私たちは創造主ではない。
でも、切り離された存在でもない。
生命が、この形をとっている。それだけ。
神がいなくても大丈夫。
霊界が幻想でも大丈夫。
願いが叶っても叶わなくても大丈夫。
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そして、探し求めていたものは、
未来にも
何処かにあるのでもない。
今ここにすべてある。
あなたが求めてやまないもの。
ハートが恋してやまない愛の故郷は、
どこかの次元でもなく
未来でもなく
今ここにある。
今ここにしかない。
それが真ん中
真中神の心
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取引の神はほどけた。けれど、自然そのものの神聖さは、はじめから失われていない。
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2026.2.22
