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人間が長い時間をかけて、
例えば
「天照大神とはこういう神」
「こういう力を持つ」
「こういう姿で現れる」
「こういうことをしてくれる」
というイメージを重ねていく。
その想念が人々の間で共有され、集合的に強くなる。まるで一つの存在のような想念体として働く。
同じ「天照大神」という名前でも、
魔術的な集まりが作り上げている天照大神と、
伊勢神宮という場に積み重ねられてきた天照大神、
また神社ごとの天照大神。
私の見方では別のエネルギーとして現れる。
しかも、それぞれが「自分は天照大神だ」というように振る舞う。
想念体は独立して話もする。
ここが、人には非常にリアル。
「実際に天照大神が現れた」
という体験を否定する必要はない。
「何が現れたのか」を見る。
そこに長年の信仰、祈り、恐れ、期待、儀式、物語など、人間の想念が重なっているなら、それが一つの形を持った存在として経験される。
それをさらに一段深く見ると、
「天照大神」という名前より前に、何があるのか。
そこにはもう、
天照大神
龍神
観音
妖怪
守護霊
宇宙人……
という名前も姿もない。
何ものにも固定されていない余白から現れ、そこに消えていく。
これが、真中神。
真中神は、
「天照大神の正体」でもない。
「もっと高次元の神様」でもない。
「すべての神様を統括する神」でもない。
そういう新しい「神の物語」にしてしまった瞬間、また外側の神が生まれる。
むしろ、
神という名前や姿が生まれる以前の実在。
その視座に立つと、宗教も魔術もスピリチュアルも否定しない。
「そこには、そこに集まった想念が形になっているんだな」
とただ見ている。
・
・
友が春日大社の御守りをお土産にくれました。
とても愛を感じて感謝の気持ちが広がります。
大吉、普通にちょっぴり嬉しいです。
でももう外側の神を崇め信仰する事はしません。
真中神も崇拝したりしません。
崇めるという事は”対象”として別になければできません。
そして人も崇めません。
あなたは素晴らしい
私は欠けた存在です。
そうあなたは自分に教えている。
人にしろ神にしろ物にしろ偶像崇拝はしません。
崇拝した時には、自分と違う存在として分離を強めます。
多くの宗教スピリチュアルは存在と人という前提があります。この世もそうです。
一方真中神は元々別れた事はなかったという立場です。
ただ元々在る神の愛のまま
その純粋な愛はどこまでも広がり繋がろうとします。
それを止めないで
防御せず
分断せず
ただそのままに在ります。
葡萄の木は、真中神。
私たちは、その枝。
花も
実も
木の生命がそのまま形になったもの。
咲かせようとせず、
実らせようとせず、
真中神の生命のまま在る✨
2026.9.3
