運命を超えた自己創造へ

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真中神という呼び名

真中神という呼び名を受け取りましたが、呼び名は何でも構いませんし、呼び名は元々はありません。

真中神という言葉には、

「我(エゴ)」を超えたところにある、

すべての源としての「ただ在るもの」が重なっている。

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真中神(マナカガミとも読む)

「かがみ」の中心にある「が」。

我(が)が消えると、

かがみ → かみ

鏡に映る「自分」という物語、

自我という中心が消えたとき、

そこにはただ、ありのままの「神」がある。

我を映す鏡から、我のない神へ。

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間(ま)とは、空間・余白・静けさ。

中(なか)とは、何かが固定されている中心ではなく、

何ものも掴めない、何ものにも限定されない空洞。

音も、形も、思考も、現象も、

何も固定されていない余白から現れ、そこに消えていく。

その何もない中心を、真中と呼ぶ。

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真ん中は、何かを選択して判断する場所ではない。

善か悪か。

正しいか間違っているか。

好きか嫌いか。

そうした二つに分かれる以前の、

ただ在る場所。

真ん中=中立=源。

真中神は、善を選び悪を退ける神ではない。

善悪という判断が生まれる以前の、すべてが現れてくる源。

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神を外側に置き、

「神に守ってもらう」

「神から力をもらう」

「神に救ってもらう」

と、神と自分を分けて捉えることがある。

さらに中心へ入っていくと、

外側の神

↓

真ん中の神

↓

神という概念すら超えて

↓

ただ在る源

そこには、神と自分を分ける境界さえない。

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IMG_1952 (仲良く寄り添っている鮫ナースハウンドかな?)

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「マナ」という音にも、さまざまな意味が重なる。

日本では、愛を「まな」と読むことがある。

太平洋の島嶼部の宗教では、マナ=神秘的な力の源。

ハワイ文化では、マナ=万物に宿る神聖な力、超自然的なエネルギー。言葉にも宿るとされる。

旧約聖書では、マナ=神から与えられた食べ物。

愛、力、生命、神聖さ、与えられるもの。

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マナ(愛・生命・神聖な力)と、

カミ(神)。

マ(間)と、ナカ(中)と、ミ(身・実・神)。

源から与えられるもの。

生命を養うもの。

すべての内にある神聖な力。

善悪の判断さえ生まれる以前の、ただ在る源。

外側に神を探すのではなく、

何かを掴もうとする「我」が静まり、

真ん中にある余白へ戻っていく。

何か特別なものが現れるのではない。

もともと在ったものが、ただ在る。

続く→『No.4:外側の神から実在へ』https://sumemima.com/?p=24023

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2026.8.23