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真中神という呼び名
真中神という呼び名を受け取りましたが、呼び名は何でも構いませんし、呼び名は元々はありません。
真中神という言葉には、
「我(エゴ)」を超えたところにある、
すべての源としての「ただ在るもの」が重なっている。
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真中神(マナカガミとも読む)
「かがみ」の中心にある「が」。
我(が)が消えると、
かがみ → かみ
鏡に映る「自分」という物語、
自我という中心が消えたとき、
そこにはただ、ありのままの「神」がある。
我を映す鏡から、我のない神へ。
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間(ま)とは、空間・余白・静けさ。
中(なか)とは、何かが固定されている中心ではなく、
何ものも掴めない、何ものにも限定されない空洞。
音も、形も、思考も、現象も、
何も固定されていない余白から現れ、そこに消えていく。
その何もない中心を、真中と呼ぶ。
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真ん中は、何かを選択して判断する場所ではない。
善か悪か。
正しいか間違っているか。
好きか嫌いか。
そうした二つに分かれる以前の、
ただ在る場所。
真ん中=中立=源。
真中神は、善を選び悪を退ける神ではない。
善悪という判断が生まれる以前の、すべてが現れてくる源。
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神を外側に置き、
「神に守ってもらう」
「神から力をもらう」
「神に救ってもらう」
と、神と自分を分けて捉えることがある。
さらに中心へ入っていくと、
外側の神
↓
真ん中の神
↓
神という概念すら超えて
↓
ただ在る源
そこには、神と自分を分ける境界さえない。
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・
「マナ」という音にも、さまざまな意味が重なる。
日本では、愛を「まな」と読むことがある。
太平洋の島嶼部の宗教では、マナ=神秘的な力の源。
ハワイ文化では、マナ=万物に宿る神聖な力、超自然的なエネルギー。言葉にも宿るとされる。
旧約聖書では、マナ=神から与えられた食べ物。
愛、力、生命、神聖さ、与えられるもの。
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マナ(愛・生命・神聖な力)と、
カミ(神)。
マ(間)と、ナカ(中)と、ミ(身・実・神)。
源から与えられるもの。
生命を養うもの。
すべての内にある神聖な力。
善悪の判断さえ生まれる以前の、ただ在る源。
外側に神を探すのではなく、
何かを掴もうとする「我」が静まり、
真ん中にある余白へ戻っていく。
何か特別なものが現れるのではない。
もともと在ったものが、ただ在る。
続く→『No.4:外側の神から実在へ』https://sumemima.com/?p=24023
2026.8.23
