亡骸を目にすると、はっきりと分かることがあります。
——私たちは、カラダではない。
エゴはカラダを使い「自分」という個別性にしがみつきます。
機会あるごとに亡骸をよく見たほうが良いかもしれませんが、
見ても見ても
エゴは、この真理を本当には理解しようとしません。
けれど、亡骸は教えてくれます。
すべてが静かに語りかけてきます。
「生命とは、カラダの中にあるものではない」と。
(抜け殻と思えばここまでしなくてもと思うかも知れない。でも息子は、家の前で車の中で火葬してこの様にしてくれる業者に頼みました。人間と全く同じ火葬で驚きました。真我霊は息子の愛の気持ちに沢山の愛で応えてくれました。
どのような送りかたでも”形ではなく思いだけ”なのです。日常のどんな時も愛からの言葉や行動なのか、それだけが大切なのです)
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✨両親とペットの旅立ちを通して
年末年始にかけて、両親が旅立ち、ペットも数日前カラダを抜けて旅立ちました。
亡骸を見て改めて思いました。
霊(生命)が抜けると、カラダはただのものになる。
霊が入っている時は、あんなに生き生きと輝いていた。
——私たちの本体である生命(いのち)って、本当に素晴らしい。
母は前日までデイサービスで笑顔を見せ、
お風呂に入り、クリスマスケーキを「おいしいわ」と食べていました。
そして翌朝、眠るように旅立ちました。
その抜け殻を見たとき
“生きていたカラダ”と“抜けた後のカラダ”の違い
を見せられました。当たり前ですが
霊(生命)が抜けた体は、ただの抜け殻だったのです。
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✨エゴ=カラダ
私たちは、つい自分を「カラダ」だと思い込みます。
見た目や健康、他人との比較に一喜一憂し、
「自分」という存在をカラダに閉じ込めて生きています。
でも本当の私たちは、カラダではありません。
カラダは、分離を体験するための“器”。
エゴ=カラダとも言えるでしょう。
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✨カラダに入りきらないほどの生命
本当の私たちは、カラダには入りきらないほど大きな生命そのもの普遍意識です。
頭では知っていても、
実際にはまだ“カラダの自分”に囚われています。
それでも、私たちの本体である霊を曇らせずにカラダと共に生きたいと思いませんか?
この世の事象に囚われていない霊が宿ると、
その人は光を放ちます。
光背をもつ天使やイエス・キリスト絵を見たことがあるでしょう。
それが真中神の愛——生命そのものの放射です。
俗な言い方をすれば、「オーラのある人」。
それを望むとエゴそのものに戻ってしまい、その様にならないという事になってしまうのですが😅
この世の事象に囚われた様々な思いがなく静かな心で在るので霊がそのまま澄み切っています。
ですから中立なカラダは、静かなカラダとなります。
カラダにとっても、良いことしかありません。
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✨生命を曇らせないために
生命を覆う想念をつくらず、
曇らせないようにしたいですね。
カラダではなく、
普遍的生命そのものとして生きる。
それが、いのちを真に生きるということ。
そして——
真中神の輝きのままに生きることです。
それを望むなら、
真我霊は本来の輝きに還るように、
そっと心に光をともします。
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今日もお読みいただきぁㇼゕ̎と੭່ごㄜ¨ぃまਭෆ❛ั︎◡︎❛ั︎ෆ✩⃛︎*⁎✨💞
寂しさを感じるとすぐ次のペットや何かで埋めたくなるものですね。
けれどそのたびに、
「真中神の愛の中にいられること」そのことに立ち返ってみましょう。そこには足りないという寂しさはありません。そこには、旅立った愛する者たちともひとつです。
真中宇宙には分離がないのだから、すべてのいのちは一つの光の中にあります。
その静かな愛と共にありますように🌿
2025.10.29
