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こちらを読んでから(セッション報告文)瞑想に入るとまた感謝がブワーッとわき、真中神にすぐ着く感じがしますので、続けています。
2点質問がありまして、
真我霊についてのブログが見つけられず、ありましたら教えてください。山本さんの説明動画は聞き返しているのですがもう少し知りたいと思いました。
また、最近、天使に色々お願いすると、直ぐにきてくれて細かなことを叶えてくれるなと楽しんでいました。例えば大至急のとき、何時何分までに到着させてください、などです。
直ぐに叶えてくれるから天使にお願いしない手はない!という意見と、
天使にお願いして叶えてもらうとその代償は大きく、ずっと良くならないことにあうからやめた方がよいという意見を聞きました。
真中神と繋がれば天使より高い存在かと思いますが、真中神は日々の都合の良い要望を叶える存在ではないしなぁ…と思い、教えていただけたらと思いました。
可能であればお願い致します。
(岩手旅行より✨ただ静かにそこに在り、誰かに認められようともせず、何かを証明しようともせず、晴れの日も、雲の日も、ただ生命としてそこに在る。真中神の生命とは、本来こういうものなのかもしれません。)
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🌟すめみま…
真我霊のBlogは沢山ありますが、私もどこに書いたか探せません。必要ならちょうどの時に見つかると思います。
セッション後のご質問にはお答え出来ませんのでBlogに書かせて頂きました。ご質問の答えになっているかは分かりませんが浮かぶままに書いてみました。
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真我霊をお受けになる前に、まずは真中神と静かにつながってみてくださいね。
けれど本当は、元々すべて真中神の生命の中に在ります。
ですから何かを新しく得るというより、「余計な思い」に気づいていくことから始まります。
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とても奥深いものですから、焦らず、ゆっくりです。
焦れば頭で理解したつもりで、途中で投げてしまうのが本当に目に見えています。
一生涯、
一瞬一瞬自我の心に気づいて
真中神の心となる
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まだ外側に助けを求めている心、
なんでも叶えてくれる召使いのような存在を望んでいる心、
安心を条件付きで探している心。
それに善悪をつけるのではなく、
「ああ、今こういう心があるのだな」と静かに見ていく。
その積み重ねの中で、
少しずつ真我霊の静けさが見え始めます。
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👼天使という存在をどう捉えるかで見え方は変わりますが、真中神の視座から見ると、
「お願いを叶えてくれる存在」
「代償を取る存在」
そのような二極の話そのものが、まだ分離の世界の理解でもあります。
天使という存在をどう捉えるかで見え方は変わりますが、天使にお願いして助けられたように感じる体験自体を、否定する必要はありません。
ただ真中神の視座では、
「外の存在が特別に人生を操作している」
というより、
あなたの心の抵抗が一瞬ゆるみ、
元々流れている生命の働きと自然に重なった、
と見ることがあります。
ですから、
“天使を信じるのが悪い”
という話ではないのです。
ただ、
「外の存在が助けてくれないと私は安心できない」
という心が強くなるほど、
少しずつ苦しさも生まれやすくなります。
実際、人の心が強く一点に向いた時、
意識・エネルギー・偶然・直感・周囲の流れが重なり、
現実が動くことはあります。
そして、その働きに
「天使」
「守護存在」
という名前を与える人もいます。
ですが真中神は、
「誰か外側の存在があなたの人生を操作している」
という見方はしません。
真中神の生命は、
最初からあなたの内にも外にも流れていて、
分離なく働いています。
だから、
“天使が叶えてくれた”
というより、
「心の抵抗が一瞬薄れ、
元々ある真中神の生命の流れと一致した」
そう見ることもできます。
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また、
「願いを叶えると代償が来る」
という考えについても、
真中神の視座では少し違って見えます。
本当に起きているのは、
代償というより、
“執着した方向に心が固定される”
ということです。
例えば、
「これが叶わないと不安」
「外の存在に助けてもらわないと」
という状態が強まるほど、
心はますます外側に力を預け始めます。
すると一時的に願いが叶っても、
今度は
「またお願いしなければ」
「繋がれなくなったらどうしよう」
となりやすい。
苦しくなる原因は、
天使の代償というより、
“分離への依存”
なのです。
逆に、
ただ遊び心や感謝のような軽やかさで、
「助かった、ありがとう」
と流れていくなら、
大したことではないので自由にされたらよいと思います。
重要なのは、
どこに力を置いているかです。
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そして、
真我霊は、
その全てを静かに見ている、
あなたの内なる愛の感覚です。
真我霊は、
「お願いを叶える存在」
ではありません。
不安で縮こまった心を、
元の静けさ(生命の幸せな流れ)へ戻していく働きです。
だから真我霊に近づくほど、
願いが消えることもあります。
あるいは、
願いはあっても、
執着が薄れていきます。
「叶えば幸せ」
ではなく、
既に生命の中に在る安心の中にあるからです。
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そして真中神は、
さらにその奥です。
真中神は、
都合よく願望を操作する人格神ではなく、
すべてを動かしている生命そのものです。
風が吹くことも、
電車に間に合うことも、
間に合わないことも、
出会いも別れも、
全部を含んでいます。
だから真中神は、
「この願いはOK、これはダメ」
と裁いている存在ではありません。
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ただ、
分離した恐れの心ではなく、
生命そのものとして在る時、
不思議なくらい流れが整うことがあります。
それは、
“願望を支配した結果”
ではなく、
“抵抗が減った結果”
なのです。
ですから、
外の存在を恐れたり、
逆に崇拝したりする必要はありません。
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一番大切なのは、
「私は本当は、
外の力に助けてもらい救われないと存在できないと思っていないか」
そこを静かに見ることです。
真中神の生命は、
最初から離れていません。
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エゴは、
「結局どっちなの?」
「使っていいの?危険なの?」
「何が正解なの?」
と、白黒を欲しがります。
けれど真中神の視座は、
善悪で切り分けるというより、
“その時の心は、
分離へ向かっているのか、
生命へ還っているのか”
そこを見ています。
だから、
天使を信じること自体が問題なのではなく、
「外側の力がないと私は足りない」
この前提が強くなるほど、
心は苦しくなりやすい。
逆に、
生命への信頼の中で自然に起きる導きや偶然は、
名前が天使でも直感でも、
本質はそれほど重要ではありません。
真我霊は、
「もっと特別な力を」
とは言いません。
むしろ、
「もう充分ここに在る」
と静かにほどいていきます。
だから枯渇の中にいるエゴには少し物足りなく感じるのです。
でも、
その“特別ではなさ”の中に、
とても深い安らぎと真の幸せがあります。
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今まで触れてきたスピリチュアルの考え方とは
視点が違うため、最初は理解しにくく感じるかもしれません。
ですから、答えを急がず、これからも体感を通して、真中神を求める心と共に少しずつ経験していきましょう。
そして真中神は、
天使より高い存在、
低い存在、
そういった比較の中に在るものではありません。
真中神は、
何か特別な存在が上にいて支配している、というより、
最初からすべてを包み、
すべてに流れている生命そのものとして在ります。
2026.5.16