お正月休みにスピリチュアル本棚で立ち読みしました。
そこで目にとまった本は非二元の体験の本
今までアセンション(次元上昇)が流行ったけれど
次の流行りはこれだなと感じました。
非二元の体験が次々と語られ、「純粋意識」という言葉が現れ、
そこに向かおうとする構図が、うっすらと透けて見えました。
形は違っても、
探し、到達し、救われようとする動きは同じです。
エゴは、
いちばん高い目的地
いちばん特別な地点
いちばん安心できる場所
特別感
を求めるのが大好きです。
これはアセンションの時と同じ罠にハマる事になります。
だからこそ、ここでひとつだけ、はっきりしておきたいのです。
目的地は、ありません。
今日はその事を心のままお話し致します。
|
|
真中神の生命(いのち)の流れ
流れは元々ある
どうであろうと
どこかに辿り着くものではない
自分の思いで何とかしようとして流れに岩を置いて
水しぶきが立って大変なことになっても
変わらず流れはある
映画を観てる
ストーリーが展開し
演じている人々がいる
映画が終われば元々ある白いスクリーンが現れる
これが純粋意識で真中神という人もいる
でも映画も含めて真中神です。
すべてどうであろうと真中神です。
|
すべてが等しく存在している
だからこそ愛があるのです。
|
空は真中神だとしたら
嵐も
台風も
曇り空も
空模様
変わらず空です。
ただ在る意識
これも空模様
葛藤していても
ただ在る意識でも
真中神は変わらない
|
「これが終われば救われる」「ここまで来れば安心」
エゴ構造が最後の拠り所として
「自己の消滅」を理想化することも、
ひとつの空模様
|
ここには、
目的地も
正解も
理想像も
ありません。
空(そら)は掴もうとしても掴めない。
|
この言葉は、何かになろうとするエゴにとっては
絶望に見えるかもしれません。
けれど真我霊の視座では、
それは究極の自由です。
目指すことをやめた瞬間、
すでに在る真中神の静寂が、
ただ露わになる。
|
このお話をさせて頂いた時に山本先生から”本当の自分”
について尋ねられました。
真我霊は真中神の創造したままのエゴのない私であり
真実の我の霊ですから
ある意味で「本当の自分」と呼べるものです。
でもわざわざならなくてもそれです。
本当の自分になる。。
何かになろうとする動きが緩んだとき、すでに在ったものが、露わになる。
それを
「本当の自分」と呼びたければ呼べるけど、呼ばなくても何も困らない。
という感じはします。
「本当の自分」は、
探す対象としては存在しない。
でも同時に、否定する必要のあるものでもない
なぜなら本当の自分を探しているという動きそのものも
すべてが真中神の生命のあらわれだから。
|
私の今の正直な感覚では、本当の自分って何??
という感じです。
今ここで、
みかんを食べて
寛いでいる私がいる
それだけだから
2026.1.18
