運命を超えた自己創造へ

今日は現実化の考え方を、すめみまの世界から体験して実感した事を書いてみます。

彼と別れて直ぐから出会いは望んでいましたが、年末になり意識的に希望をオーダーする事をしてみようと思いました。

自分は自分の宇宙そのもので、現実は思う通りになる

そうこれまでにも増して突然確信が出ました。

今まで少しづつ体験した事を書いていますが、すべてこの世界は人間の想念で出来ていると思うようになりました。

その体験、見方を先にお話します。

人々は果たして気づいているのだろうか、人の後ろについている存在、背後霊、守護霊と呼んだり、天照大神であろうと聖母マリアであろうと阿弥陀如来であろうとその人のエネルギーと同じです。

(他の霊能者やサイキックにつけて貰った存在はその元の人の世界のものです)

たとえば分かりやすい例をあげると伏見稲荷のキツネさんが背後で守っていたとします。

姿形はそれ(伏見稲荷の狐)です。

しかしその人と同じなのです。

同じエネルギーの資質といったら良いでしょうか。。

そこに伏見稲荷の個性はあると言う感じです。

極端に言うと同じ神社仏閣の神仏が背後霊としてついていても、その人と同類世界

わたしの感覚ではその人そのものなのです。

その人のエネルギーをちょっと使って現した様に同じにみえます。

お稲荷さんに祟られたと言う人は、そういう世界を自分で創造して自ら祟られるという感じにわたしには思えます。

豊かさ願い事をよく叶えてくれるお稲荷さんの特性を、チョイスして私の世界に創造したりもします。

こういったことは面白い仕組みに見えます。

分かりやすい様にお稲荷さんで例をあげました。

因みにお稲荷さんは伊勢神宮の下宮、豊受の神と同じです。狐さんの偶像はないですが狐さんの眷属さんがいらっしゃるのが見えたりします。

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極端に思える話ですが、私の体験、視て感じた事です。

背後の霊だけでなく、こういった事が自分の周りの世界全部にふとした瞬間感じます。

友達であろうとすべて私のエネルギーで出来ている様に感じたりする瞬間があります。

これはどう言う事か?その時は、そう疑問も出ないほど自然なのです。すべて私なんだふとした瞬間思い出します。

肉体は個別にありますから、ここにいる限り見た目は別れて存在しているし、考え方も違います。

このようにみえた時は、世界も人間関係も愛に満ちていて普段とは違ってきます。

イメージしやすい様に書くと例えばその人が凶暴性のある人でも

わたしの前では良い人の側面がでてとっても穏やかで優しかったり

平和と愛の世界、わたしの一部わたしの世界の人になるのです。

でも自我の恐れているちっぽけな私になるとその見方は消えて

世界に翻弄された私

起こることに力ない私

幻想界の私

私の世界は恐れの世界になってしまいます。

外に意識パワーを明け渡し自分の内と切り離した状態です。

すべて私だと言う一体感覚の時は、周りの世界に翻弄されて力ない状態にはなりません。

この意識状態にいるときは創造が早くなります。

これは私は神という視点、私の内なる神と一体だという視点のお話です。

ふとした瞬間に色々な意識世界を体験しますから、それを日々掴んで体験しています。

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現実化の考え方でもう少しイメージしやすい見方をしてみます。

私が神という見方からでなく

人間が神という見方から書きます。

神社の神々さまという括りを外しても

この空気も神々さま、

強いてはこの宇宙も神々と思っていましたが、すべて遍満しているエネルギー

そこに人間の思いを入れればエネルギーの形、作用が変わります。

イメージ的には私たちも生き霊になったり念があります。

神には人間の想いがつくった単なる想念体の神もまた存在すると思います。

形のある神はすべてそれです。

本当の神は純粋な働き、光、エネルギーの自然な働きと思います。

形ある神は人間のつくった想念の神、何度も視せられた体験から気づきました。

何度も書いてしまいますが、私たちの想念が、バドゥーサや大天使、阿弥陀如来などの神仏、色々な怪物、悪魔、宇宙人などの形で見えたりします。

姿形のある神は私たちの念(想い)が創造したのだ

そういう思いが常にありました。

今はそう思っています。

神仏、宇宙人などは私達でもあると言う言い方でもよいかも知れません。人間の意識は不思議で解明出来ません。

私は息子が心を病んでいた時に、彼の想念が分離した存在をつくりだしていました。

彼自身もそれを知っていて利用するのです。

私が見つけると息子は「地下へ帰れ!」と分離した存在に命じました。

その想念体はブツブツ文句を言いながらノコノコ地下に消えました。

驚く事に人間が作った想念は独自の意識を持って動き働きます。

それが想念界の願いを叶えてくれる神だったりします。

私たちは良い神を念の形で創造して働かせる事もできるのです。それが集合意識の中で長い歴史の中で大きな力を持つ存在となります。

大いなる源を神と呼ぶなら私たちの小さな願いなどたぶん知りません。

そこに至る波動の違いでその資質は違ってきますから一括りに神は人間の想念がつくったとは言っていません。

そう言った神もあり、人や他の霊が神になったものもあり、次元で人も神であったりします。

信仰の力、神を敬う心が神と私たちはまったく別物で遥か高みの存在となり、私たち自らパワーを明け渡してしまったのかもしれませんね。

目に見えない存在、神、宇宙人もそうです。それらにパワーを明け渡すのではなく自分の内側に従う事を大切に思います。

自分の内の神

自分は神という部分

違う言い方では、

私は自分の内なる叡智を信じたいです。

そこの世界を感じてみるとわかりますが、何より気持ちイイ

これが証拠で、これが正しく真実だという事だと思います。

真実の私たちはそれを抜けた光そのもので神そのものです。そこでは分離はなく私たちも神。

どこまで無限の高みに繋がっていて大いなる源と一体化するのです。

想念界にいる以上、人間は意識を使って見たいものを創り出す事が出来るし、想念の神と私たちの創造と区別する必要はないと思っています。

この世界は肉体がある限り分離はあるし、

その上のガイドやマスターたちも分離のエネルギー体がまだあるようにみえます。

本当にその上の分離のない世界はきっと自分という意識すらない

でも今回の話は、そういう事を語っているのではなく、もちろん見方について議論したい訳でもなく

長くなりましたが、私たちも望む現実を想念、想う念で創造できるという事をイメージして頂きたく色々な私側面の体験や感じた事を書いてきました。

せっかくこの物質界を肉体を持って楽しんでいるのだから

“想念界の現実の仕組みを上手く利用して現実化に使いたい”と私は思っているのです。

遊び感覚くらいに捉えています。

本当は必要ないかも知れませんが、

わたしは神さまのお働きが見え、神さまも私たちの心を喜ばれるので御神酒で御礼の気持ちを捧げたりもします。

想念の世界の遊びに乗っかると長年の歴史的な流れがあり、エネルギーがスムーズに働きます。

御神酒を献上するのもこの事から行っています。

ままごと遊びのように

たとえ人間の想念が創り出した神さまとしても、私たちの友人、両親、御先祖さまと同じように考えて大切に敬っています。祖霊神と捉える見方も神道ではありますものね。

人間の願う気持ちが創り出した神々は、

長い歴史の中で神として独自のエネルギーとして存在する様になりました。

それほど人間の創造する力はパワフルで素晴らしいのだと思います。

人の事もふとした瞬間や、セッション中はずっとその方の神の姿をみています。

そして私の意識による現実化と区別せず、神さまのお働きも同一に考えています。

自由自在に現実が変化する

錬金術の様に考えるのも楽しいですね♪

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ここに書いた事は、わたしの体験からそうなんだって突然内側から気づき思い出した事を書いています。

実感した事でないと使えません。逆に言うと実感した事はそれがなんであれ信じるパワーがあるので現実になるのです。

ですからこれがみなさんにとっても絶対本当の事ですと言っているのではありません。

なぜならその人それぞれ世界は違って見えるからです。

ここでは自分の信じた世界がその人の現実なのです。

みなさんも自分自身を信じる事がとても大切です。私の書いた事や日々飛び交っている情報もなんかおかしいとか、自分の感覚を信じる事がとても大切です。

私の世界はこんなで、こういった意識で現実化して遊んでますよーと言うお話でした。

現実化はいつもは自然過ぎて意識していませんが、今回は恋人オーダーですから少し力はいりました笑笑♪

次回は自分の世界にオーダーしたら、あらビックリのお話が書けたら良いです。

続く→

思いつくままのまとまりない長文をお読み頂きありがとうございます

お写真…春日大社の水占い。かわいいですね♪