運命を超えた自己創造へ

生物学者の福岡伸一さんの新聞記事

「これを読んで平和になれました」クライアントさんからシェア頂きました。

難しくてよくわかりませんが、最後の文はうんうんと思いました。

ウイルスはエネルギー的にもお願いすると動いたり、違うよいウイルスに変化しようとしたり、とっても不思議な存在です^_^

介護士の娘は「恐る事が大事なの!恐れない人がいるからお年寄りにうつして弱い人たちが亡くなるの!だから自粛して!」と言います。

人生の苦難を乗り越えて生き延びた90代の父は、コロナを恐れて病んでしまう人の話を聞いて

「自然淘汰だ!」と一番コロナを恐れているくせにいいます(^^;

パートナーは以前「恐れは畏れ、だから悪いことではない」と言いました。

畏れおおい

畏れ敬う

畏怖の念といいますね。

ウェブスター辞書では、尊敬を「深遠な憧憬的、畏怖を伴った尊敬・敬意・崇敬・献身」畏れる・恐れる(tofear)」という動詞の古典的な意味は、「(神に対して抱くような)うやうやしい畏怖を持つこと」

私たちは今こそ自然を畏れ敬い調和していく時かなと思います。

🍀🍀🍀

クライアントさんからの記事のシェア

お読みになったかもしれませんが、私の好きな生物学者の福岡伸一さんの記事が朝日新聞にありましたのでコピーしました。

読んで、やはり♪と、思いました。

自分も動的均衡の中の一つの生命体と思えてより恐怖は減り、より素直に自然になりたいと願い、平和になれました。

すめみまさんのおっしゃる、地球の浄化の意味がわかる気がします。

———————————–

「ウイルスは撲滅できない」

福岡伸一さんが語る動的平衡

2020/4/6 5:00 有料会員限定記事

青山学院大学教授・生物学者の福岡伸一さん

 ウイルスとは電子顕微鏡でしか見ることのできない極小の粒子であり、生物と無生物のあいだに漂う奇妙な存在だ。

生命を「自己複製を唯一無二の目的とするシステムである」と利己的遺伝子論的に定義すれば、自らのコピーを増やし続けるウイルスは、とりもなおさず生命体と呼べるだろう。

しかし生命をもうひとつ別の視点から定義すれば、そう簡単な話にはならない。

それは生命を、絶えず自らを壊しつつ、常に作り替えて、あやうい一回性のバランスの上にたつ動的なシステムである、と定義する見方――つまり、動的平衡の生命観に立てば――、代謝も呼吸も自己破壊もないウイルスは生物とは呼べないことになる。

しかしウイルスは単なる無生物でもない。ウイルスの振る舞いをよく見ると、ウイルスは自己複製だけしている利己的な存在ではない。むしろウイルスは利他的な存在である。

 今、世界中を混乱に陥れている新型コロナウイルスは、目に見えないテロリストのように恐れられているが、一方的に襲撃してくるのではない。

まず、ウイルス表面のたんぱく質が、細胞側にある血圧の調整に関わるたんぱく質と強力に結合する。

これは偶然にも思えるが、ウイルスたんぱく質と宿主たんぱく質とにはもともと友だち関係があったとも解釈できる。

それだけではない。さらに細胞膜に存在する宿主のたんぱく質分解酵素が、ウイルスたんぱく質に近づいてきて、これを特別な位置で切断する。

するとその断端が指先のようにするすると伸びて、ウイルスの殻と宿主の細胞膜とを巧みにたぐりよせて融合させ、ウイルスの内部の遺伝物質を細胞内に注入する。

かくしてウイルスは宿主の細胞内に感染するわけだが、それは宿主側が極めて積極的に、ウイルスを招き入れているとさえいえる挙動をした結果である。

 これはいったいどういうことだろうか。問いはウイルスの起源について思いをはせると自(おの)ずと解けてくる。

ウイルスは構造の単純さゆえ、生命発生の初源から存在したかといえばそうではなく、進化の結果、高等生物が登場したあと、はじめてウイルスは現れた。高等生物の遺伝子の一部が、外部に飛び出したものとして。

つまり、ウイルスはもともと私たちのものだった。それが家出し、また、どこかから流れてきた家出人を宿主は優しく迎え入れているのだ。

なぜそんなことをするのか。それはおそらくウイルスこそが進化を加速してくれるからだ。親から子に遺伝する情報は垂直方向にしか伝わらない。しかしウイルスのような存在があれば、情報は水平方向に、場合によっては種を超えてさえ伝達しうる。

 それゆえにウイルスという存在が進化のプロセスで温存されたのだ。おそらく宿主に全く気づかれることなく、行き来を繰り返し、さまようウイルスは数多く存在していることだろう。

 その運動はときに宿主に病気をもたらし、死をもたらすこともありうる。しかし、それにもまして遺伝情報の水平移動は生命系全体の利他的なツールとして、情報の交換と包摂に役立っていった。

 いや、ときにウイルスが病気や死をもたらすことですら利他的な行為といえるかもしれない。

病気は免疫システムの動的平衡を揺らし、新しい平衡状態を求めることに役立つ。そして個体の死は、その個体が専有していた生態学的な地位、つまりニッチを、新しい生命に手渡すという、生態系全体の動的平衡を促進する行為である。

 かくしてウイルスは私たち生命の不可避的な一部であるがゆえに、それを根絶したり撲滅したりすることはできない。私たちはこれまでも、これからもウイルスを受け入れ、共に動的平衡を生きていくしかない。